一昨日の続きです。
一昨日の記事はこちらから。
「否定しないということ。」↓
ある人にとって、薬は必須でもある人にとっては、
薬は全く必要なく、靴の方が重要だったり。
レゴのアヒルの作品がそれぞれ異なるのと同じ。
((しつこく 笑)もう一度リンク貼っておきます( ̄∇ ̄))
「レゴ®シリアスプレイ®」
どれもその人にとっての正解であるのだと思う。
(正解という言い方は、書いていてちょっと違和感を
感じるのだけれど、他に思いつかずすみません。。。)
でも、だからといって他の意見や他の人が作ったアヒルが不正解かというと、そうではない。
靴が必要と話してくれた人にはその人の、薬が必要と話してくれた人にもその人の、
このアヒルを作った人にもその人の、みんなそれぞれが見えている
それぞれの景色が広がっているということ。
靴の景色が広がっている人に、無理矢理、薬の景色に変えて欲しいと言っても
それは、無理矢理変えられる方も変えさせる方もエネルギーを消耗するだけ。
「否定する」ということはそういうことなのかも。
「ねばならない」とか「こうあるべき」とか、
固定観念が強ければ強いほど、自分がそれに囚われて
身動き出来なくなると感じた。
だったら、「この人にはこういう景色が広がっているのだ」という捉え方で、
お互いにそれぞれの景色を楽しめた方がいい。
全く同じ景色を見ることはできないけれど、
(そうしようとするとまた囚われることになる( ̄∇ ̄;))
共有や共感はできる。
金子みすゞの詩、
「鈴と、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。」
なのだ。